近場の史跡めぐり
5月23日(土)に近場の史跡めぐりをしました。
この日は飲み会があるので、ちょっと早めに自宅を出て飲み会場所の近くにある”分倍河原古戦場碑”、”新田義貞公之像”、”棒屋の坂”の3か所を見て来ました。
分倍河原古戦場碑(東京都指定旧跡)
鎌倉時代の元弘三年(1334年)、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、本拠の上野国(現群馬県)から南下し、所沢の小手指ケ原、久米川の戦いで優勢に立った。この勢いに乗って北条泰家を総帥とする幕府軍と分倍河原にて戦端を開きました。 新田軍は最初は負けたが、相模の豪族を味方につけて、分倍河原の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅亡した。
碑は昭和10年に建立されたもので、題字は新田義貞のご子孫の方の筆によるものだそうです。
うんちく書き
新田義貞公之像
新田義貞を北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作されたもの。
棒屋の坂
旧甲州街道にこんな物がありました。
坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれたためとの事。
坂の写真は旧甲州街道そのものなのでパスであります
飲み会の前に散歩をする事で、美味しく飲むことが出来ました。動機がちょっと不純だったか???
なお、飲み会についての記事は省略します。
この日は飲み会があるので、ちょっと早めに自宅を出て飲み会場所の近くにある”分倍河原古戦場碑”、”新田義貞公之像”、”棒屋の坂”の3か所を見て来ました。
分倍河原古戦場碑(東京都指定旧跡)
鎌倉時代の元弘三年(1334年)、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、本拠の上野国(現群馬県)から南下し、所沢の小手指ケ原、久米川の戦いで優勢に立った。この勢いに乗って北条泰家を総帥とする幕府軍と分倍河原にて戦端を開きました。 新田軍は最初は負けたが、相模の豪族を味方につけて、分倍河原の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅亡した。
碑は昭和10年に建立されたもので、題字は新田義貞のご子孫の方の筆によるものだそうです。
うんちく書き
新田義貞公之像
新田義貞を北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作されたもの。
棒屋の坂
旧甲州街道にこんな物がありました。
坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれたためとの事。
坂の写真は旧甲州街道そのものなのでパスであります
飲み会の前に散歩をする事で、美味しく飲むことが出来ました。動機がちょっと不純だったか???
なお、飲み会についての記事は省略します。
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